スティーブ オースチン。 スティーブ・オースティン

プロレス界「最凶のタフ野郎」スティーブ・オースチン選手の魅力を解説|【SPAIA】スパイア

スティーブ オースチン

ストーン・コールド・スティーブ・オースチン( Stone Cold Steve Austin、 - )は、の元、。 元所属。 生まれ。 以前の本名はスティーブン・アンダーソン Steven James Anderson 、スティーブン・ウィリアムス Steven James Williams であったが本名も スティーブ・オースチン( Steve Austin)と改名したと、にによって 報じられた。 ストーン・コールド・スティーブ・オースチン プロフィール リングネーム ストーン・コールド・スティーブ・オースチン ザ・リングマスター "スーパースター"スティーブ・オースチン "スタニング"スティーブ・オースチン 本名 スティーブ・オースチン ニックネーム テキサスのガラガラ蛇 (Texas Rattlesnake) 最凶のタフ野郎 (Toughest S. ) 身長 188cm 体重 116kg(全盛時) 誕生日 1964-12-18 (55歳) 出身地 トレーナー ルイス・ピアース デビュー 12月 引退 3月 テキサスのガラガラ蛇( Texas Rattlesnake)、 最凶のタフ野郎( Toughest Son Of a Bitch)など数々の異名を持つ。 SCSAと略されることもある。 来歴 出生名はスティーブン・ジェームズ・アンダーソン( Steven James Anderson)、後に両親が離婚し、母親の再婚によりウィリアムス姓となる。 高校、北テキサス州立大学(現:)ではの選手として活躍し、学業も優秀であったが、研究論文の作成に嫌気がさし大学を卒業間近で中退。 その後貨物会社に就職するが2年で退社し子供の頃夢中になっていたプロレスラーを志す。 での指導を受け、に本名の スティーブ・ウィリアムスの名でデビュー。 では、師匠のクリス・アダムスと抗争を展開していた。 後に実生活でクリス・アダムスの妻ジニー・クラーク(レディ・ブロッサム)と結婚している。 当時USWAにドクター・デスのニックネームで知られる同名のレスラーがいたために、リングネームをテキサス州都のに因み、アメリカの人気テレビドラマシリーズ『』の主人公の名前でもあった スティーブ・オースチンに変更。 しかしレスラーとしてなかなか成功しなかったため、これまでのからに転向し、 "スタニング" スティーブ・オースチンのリングネームで活動した。 にはに初来日し、に参戦。 2回戦でに敗れるも、放送席にいたはオースチンの技術を高く評価し、「彼はプロレスが上手い。 絶対にトップに立てますよ」と絶賛していた。 同年9月の再来日ではの持つにも挑戦。 なお、この試合で蝶野の首を破壊しているがその方法は怪我の危険性が非常に高い変形のパイルドライバーだったため日本人レスラーや関係者の顰蹙を買った。 ピルマンとのタッグ解散後はシングルプレイヤーとしてもUS王座、TV王座も獲得し活躍したが、の日本ツアー中の新日本プロレスでの試合でを負傷し故障するとWCWの副社長は早々とオースチンを解雇。 その後はWCW時代のでもあったに誘われに3か月間スポット参戦し、WCW時代のやビショフへの鬱憤を爆発させて存在感を発揮、持ち前の技術で戦線にも絡む活躍を見せた。 トレードマークのスキンヘッドはこの時代に始まっている。 WWF入団後 1996年のオースチン ECWでの活躍に目をつけたにスカウトされWWFと契約。 翌96年1月に リングマスターのニックネームでをマネージャーに迎え、技巧派のヒールとしてデビューしたが人気が出なかった。 その後3月にオースチン本人の感情をそのまま出すことができる "ストーン・コールド"・スティーブ・オースチンへとを変更。 にし、連続殺人犯をモチーフとした凶暴で手をつけられないキャラクターは、単なるヒールレスラーではなく、オースチンの邪魔をしたり、気に入らない者は相手がベビーフェイスだろうがヒールだろうが、果ては経営者であるマクマホン一族であろうが関係なく誰でも叩きのめすというキャラクターであり、それまでの品行方正なヒーローレスラー像を覆すことになっていく。 同年6月、代名詞となる必殺技のを使い始める。 同月のトーナメントで優勝し、さらに勝利者インタビューで決勝の相手が度々『』を引用し説法することをバカにして発した『オースチン伝3章16節』というフレーズが大ヒットしたことで、ヒールでありながらかなりのファン支持を得た。 同年のでは、長期欠場していたの復帰戦の相手を務め惜敗するもこの試合で技術面でも確かな評価を得た。 1月のでは初優勝を果たすも、レフェリーのミスやブレットの不満表明などにより挑戦権は2月のでの4ウェイWWF王座決定戦に持ち越される。 同試合ではブレットがオースチンを敗退させ、最終的にWWF王座を獲得する。 すると翌日のブレットの防衛戦にオースチンが乱入し1日で王座陥落。 2人の対立は決定的となり、で再びオースチンとブレットが対戦した。 この試合は名勝負として名高く、オースチン、ブレットともに生涯のベストマッチとしてこの試合をあげている。 オースチンはで失神KO負けを喫するも最後までタップアウトはせず、また試合後ブレットが執拗にオースチンを攻撃する素振りを見せたこともあり、一気にファンの支持が逆転した。 オースチンはブレットに代わりベビーフェイスとして団体を代表する選手の一人となり、凶暴なキャラクターでありながらも、彼が入場するだけで必ずといっていいほどの大歓声が沸くようになった。 その後もブレット率いるヒール軍団も巻き込み抗争は長期化。 しかし、における戦でオースチンが首を負傷。 この時は数ヵ月の欠場で復帰したものの、後の1年以上にわたる長期欠場や早期引退の引き金となった。 同97年はオーエンのほか後のライバル、ともを巡り初めて抗争している。 アティテュード時代 オースチンの入場時のパフォーマンス もで2年連続優勝を果たし、のWWF王座戦に向けたストーリーではを挑発。 しかし同大会ではタイソンのアシストを得てを下しを初戴冠した。 当時でライバルのに負け続きだったWWFは、同試合で一度引退となったマイケルズと前年にWCW移籍したブレットに代えて、この年以降オースチンを軸に「アティテュード路線」を開始した。 オースチンはリング上でを飲みまくり、相手にタコ殴りにするなどより凶暴なキャラクターとなり、WWF社長のビンス・マクマホンら権力者派閥と抗争を繰り広げた。 ビンスとの抗争は視聴者が権威や人気に太刀打ちできない実生活の鬱憤を晴らす最高のストーリーとして大ブームを巻き起こし、98年中にWCWを逆転。 その後オースチンが毎週登場するはアメリカケーブルTVで最高視聴率を叩き出した。 のビンス・マクマホン、、らの「コーポレーション」との抗争では、製氷車、ビール配送車でリングに登場したり、ザ・ロックのを破壊するなどして人気を博した。 特に、ビール配送車でリングに登場したシーンは、に行われたRAW・10周年特番で、ファンが選ぶ10年間の名シーン第一位に輝いている。 また99年のにて、ザ・ロックとのレッスルマニア初対戦も行った。 しかし1999年中盤から2年前に負った首の負傷が悪化し、治療のため以降長期欠場に入った(ストーリー上は何者かに轢き逃げにあったことになっていた)。 この時期、 1999年-2000年 で役者として活躍。 「暴走刑事ジェイク」での役柄はリング上さながらの格闘を披露する豪快なキャラクターであった。 当初ゲスト出演だったが、人気が有ったため準レギュラーとして6エピソード登場した。 幾度かのサプライズ登場を経て、のにておよそ1年ぶりに正式にWWF復帰を果たした。 轢き逃げの実行犯、そして黒幕のとの長期抗争に入った。 翌のでは史上初の3度目の優勝を果たすも、ではトリプルHとの決着戦となる3本勝負の大死闘で惜敗を喫した。 2001年のにおけるザ・ロックとのレッスルマニア2度目の対戦となったWWF王座戦では、宿敵ビンスと結託し衝撃のを果たし王座獲得。 レッスルマニア以後は、トリプルHとも結託するなどトップ・ヒールとして活躍し、らと抗争する。 WWE時代・選手引退後 にてザ・ロックと対峙するオースチン にはWWF(同年5月からWWEに社名変更)で復活したのやらと抗争を行い、史上初のブランド分けではRAWの中心選手となりGMのとも対立。 しかしながら、長年の活動により首、膝、背中などが故障していたことや、当時WWEがプッシュしていたの踏み台になる事に不満を持ちフレアーとの抗争も半ばの6月に興行をボイコット、二度目であったために懲戒解雇とされた。 また同月には、三人目の妻・へのでされた。 にWWEへ復帰するが、同年のにてレッスルマニア3度目の対戦となったザ・ロックに敗北。 この時点でレスラーは「引退」してエリック・ビショフと共にRAWの共同GMに就任する。 暫くの間は後の選手復帰への期待をされることもあったが、負傷した首や膝の状態は悪く、結果的にはこのロックとの対戦が引退試合となった。 GM時代には、ビショフがヒールのGMを演じたのに対し、オースチンはベビーフェイスのGMを演じた(ただし基本的なギミックは以前から何も変えていない)。 両者は次第に対立し、2003年のにて行われた敗者追放マッチにて両GM軍が対決した。 結果オースチン軍が敗れ、オースチンはGM職を退いた。 しかし同年のクリスマスには、RAWのとして番組復帰する。 にはにて対の特別レフェリーを務めたが、契約終了をもって一か月後に再びWWEを離脱。 同年に、過去に起こした恋人へのDVにより逮捕された。 のを前に再びWWEに復帰。 これは普通のタレント契約ではなく、の製作するの俳優としての契約である。 元ECW所属選手であったこともあり、へも登場。 またRAWで行われた対の戦にゲスト登場。 試合後ハッサンとマネージャーのデバリにスタナーを食らわせた。 2005年の10月に行われたRAWの特番、WWE・ホームカミングにおいてマクマホン一家全員にスタナーを食らわせた。 またこれをきっかけにしてRAW解説者である解任ストーリーが始まった。 実際にはジム・ロスは腸の手術の為に解説を降板したのだが、ストーリー上はオースチンのスタナーを止めに入らず、またそのことをマクマホン一家に謝罪しなかったことが理由での解雇とされた。 プライベートでもジム・ロスの友人であるオースチンが、解雇撤回ならびにジム・ロスの解説復帰をかけてにてと久しぶりに試合を行う予定であった。 しかしオースチンはPPV直前に突然WWEを退団し、ジム・ロス解任ストーリーも途中で終了することとなった。 この時はPPVでのストーリー内容に不満を持ったと言われていたが、後にWWE側からオースチンの復帰を発表。 コーチマンとの対戦をキャンセルした理由はストーリーへの不満ではなく、「PPVの数日前、自宅で家具を移動させたときに腰を痛め、試合を行うのが不可能になったため」とある。 、の入りのインダクターを務めるに際し、久々にWWEへ登場した 実はそれより前の2006年3月開催のにも出演している。 WrestleMania XIXの時点で、担当医からは「これ以上試合をしたら命の保障はできない」と忠告されているが、本人は最後の一試合を望んでいるという。 また、との夢の一戦が以前から噂されていたが、現在、実現はされていない。 にて特別レフェリーを務めるオースチン 3月頃のRAWにてでのビンス・マクマホンvsのの特別レフェリーに選ばれたというギミックで一時的に復帰、ジョナサン・コーチマンにスタナーを浴びせるなど、ストーン・コールドの姿を全世界に見せ付けた。 のRAWについてはオースチン登場の少し前にザ・ロックがビデオという形だったがタイタントロンに登場した事もあり、WWF時代を思い出させるものになった。 また、当日に行われたWrestleMania 23においても得意技のスタナーを披露するなどして、会場であったの8万人の大観衆を沸かせた。 その後も2007年7月開催のや8月のPPV、10月のPPVにゲスト出演している。 12月25日に本名を法的にスティーブ・オースチンに改名。 RAWの15周年記念の回に登場。 この日はビンス・マクマホンがRAW15年の歴史でもっとも偉大なスーパースターを発表するということだったが、ビンスは「ビンセント・ケネディ・マクマホン」つまり自分であると発言、これに対しテイカー、マンカインドがビンスを襲撃。 その後オースチンが登場し倒れているビンスを起こして一緒にビールを飲むが飲んだところでスタナーを浴びせる。 その後、観客及びカメラに向かって「もっとも偉大なスーパースターはどのレスラーでもなく、会場にいる観客、テレビで番組を見ている世界中の視聴者だ」と紹介。 最後にオースチンの呼びかけでRAW所属の全スーパースターがリング上に集合した。 公明正大にジャッジし、オースチンを押しのけてジャッジしていたオートンにスタナーを浴びせて撃退した。 入りのスピーチ 1月12日のRAWの番組内において、2009年度の入り第一号としてオースチンが選出されたことが発表された。 そして4月4日に行われた殿堂入りのスピーチで「オレはここでオレのプロレス人生のドアを閉める。 夕陽に向かって歩いて行くんだ」と事実上の引退宣言をした。 3月15日、ゲストホストとして2年ぶりにRAWのリングに登場。 のビンス・マクマホンvsブレット・ハート戦の調印式を采配する。 この時の観客の声援は現役当時と変わらずすさまじく、スタナーなどは使用せずとも存在感を大いに発揮した。 3月7日のRAWにて、で行われる予定の対の解説者対決の特別レフェリーとして名乗り出た。 なお今回のレッスルマニアにはザ・ロックがホストとして参加することが決まっており、ともに活躍の場を映画界に移している2人が久しぶりにWWEの大舞台で顔を合わせることになる。 4月3日の試合ではコールのセコンドのにスタナーを浴びせ、一度はローラーのでコールのタップアウト負けと発表するものの、その直後にRAW・GMのメールによりオースチンがコールに不公平なジャッジをしたとしてローラーの反則負けに裁定が変更された。 その後、そのメールを読んだ、リングに上がってきたにスタナーを浴びせ、ローラーとビールで乾杯した。 また、2011年4月より復活した(日本では未放送)では番組ホストを務めている。 2014年4月6日に行われたで、、らとリング上で久々の再会をし、トークのみであったが会場を盛り上げた。 出演 オリジナルビデオで主演を多く務める。 TV 公開年 邦題 原題 役名 備考 1999 - 2000 Nash Bridges ジェイク・ケイジ 第4シーズン第70話「暴走刑事」 第4シーズン第78話「さよならのキス」 第5シーズンの第100話「ある刑事の死」 2010 Chuck ヒューゴ・パンサー シーズン3第5話 「チャック VS 単独任務」 オリジナルビデオ 公開年 邦題 原題 役名 備考 2009 スティーヴ・オースティン ザ・ダメージ DAMAGE ジョン・ブリックナー 2010 スティーヴ・オースティン ザ・ストレンジャー THE STRANGER トム・マシェフスキー スティーヴ・オースティン ザ・ハンティング 2011 TACTICAL FORCE テイト スティーヴ・オースティン 復讐者 RECOIL ライアン スティーヴ・オースティン ノックアウト KNOCKOUT 映画 公開年 邦題 原題 役名 備考 2005 THE LONGEST YARD 2007 THE CONDEMNED コンラッド 2010 THE EXPENDABLES ダン・ペイン 2012 沈黙の監獄 MAXIMUM CONVICTION マニング マキシマム・ブロウ THE PACKAGE トミー 2013 GROWN UPS 2 得意技 オースチンの代名詞的な技であり、最大のフィニッシュ・ホールド。 中指を突き立てて相手の土手っ腹に前蹴りをぶち込み、前のめりになった頭を抱え込んで自分の肩に乗せ、自らの体重をかけ落下し、尻餅で着地して相手の顎を痛打する。 欠場中または引退後も、この技を披露した。 これを喰らった相手の吹っ飛び方も見物である。 (、、、など) ルー・テーズ・プレス() スタナーと並んで使用頻度の高い技。 ここからマウントの体勢からのパンチ攻撃に繋げるのが定番ムーブ。 コーナーでのストンピング コーナー下に座り込んだ相手に、徐々にスピードを上げながらストンピングを連発し、最後は相手に中指を突き立てた後、一発見舞うのがお決まりである。 実況では"穴掘り"と言われた。 オースチンの場合、独特の動作を付けた後、前のめりに前方に落とした。 コーナーからダイビング式で見舞うこともある。 ミリオンダラー・ドリーム() リングマスター時代の必殺技。 ストーンコールドに変身後も数回のみ使用。 いわゆる尻餅式のツームストーン・パイルドライバー。 来日時、この技での首を破壊し激怒させている。 しかし数年後、今度は自らがオーエン・ハートとの試合中この技によって首を骨折した。 以降、WWFではパイルドライバー系の技は原則禁止(反則)となっている。 スタニング時代の得意技で、ニックネームの由来にもなった技。 相手を正面から抱え上げ、倒れこんで喉をトップロープに打ち付ける。 ストーンコールドとなってからも、繋ぎ技として使用していた。 2003年• What? (はぁ? ) ヒールレスラーが何か言葉を発する時に遮って連呼する台詞。 以降、ストーンコールド及びヒールのマイクパフォーマンスで一言発する毎に観客が「What? 」と叫ぶのが通例になっていた。 そのためWWEのマイクパフォーマンスは長文が少なく、短文の連続で構成される傾向にある。 試合中にナックル、チョップ、ストンピングなどの打撃をヒットさせた時も観客がチャントしていた。 彼は耳が悪く、電話中に何度も「What? 」と繰り返すのをがからかったのが元ネタといわれる。 And that's the bottomline because Stone Cold said so. (そこのところが肝心だぜ、ストーン・コールドかく語りきよ)• 」と叫べ) 彼がこの言葉を発すれば会場中が「hell yeah! 」と大合唱する。 Austin 3:16 says I just whipped your ass! (オースチン伝3章16節曰く、てめぇのケツをぶっ飛ばしたぜ) 元々はKOR'96優勝時に、ジェイク・ロバーツ(当時は怪奇派ではなく敬虔なギミックだった)をからかい、「3章16節が何かなんて知らねぇが…」の後に発した言葉。 Don't trust anybody(誰も信用するな) 2001年レッスルマニアにおいてヒールに転向した直後は、観客から皮肉にもこれをもじって「Don't trust Austin! 」と叫ばれた。 その他• 生まれた日の気温は氷点下8度、米国内でも比較的暖かい南西部にある生まれた町では、一年に一度あるかないかの厳しい寒さの日であったとのこと。 の番組「Celebrity Death Match」(粘土で作られた有名人同士がプロレスのリングで戦う番組)に度々ゲスト出演し、自身でアフレコも当てていた。 オースチンのコスチュームの一部でもある金のチェーン・ネックレスは、タッグを結成した際にがショッピングモールで揃いのアイテムとして買ってきた品である(コスチュームはオースチンが手配したという)。 ピルマンが若くして亡くなった後も、友情の証として現在も必ず身に付けている。 「ストーンコールド」の由来は、家で『冷たいイメージ』の新リングネームを考案中、当時の妻ジニーに「早く紅茶を飲まないと石のように冷めたくなる(Stone cold)」と言われたことに閃いてつけられた。 当初は「アイス・ダガー」「フロスティ」といった名前が提案されていた。 彼が試合後に飲む缶ビールは「 スティーブワイザー」と呼ばれ、スタッフによって次々とリング内に投げ入れられ、タッグパートナーと一緒に飲むことも多かった。 銘柄は、、、などで、試合のたびに変えるよう心がけているとのこと。 なお、2月の日本公演()ではを口にしたが、日本のビールはアメリカよりもアルコール濃度が高いため、かなり酔っぱらってしまった。 そのため、全試合終了後にファンサービスでリングに戻って来た際には千鳥足で、かなりのへべれけ状態&超ご機嫌であった。 2019年9月のMSGでの公演では、自身が企画し、El Segundo Brewingと共同開発したBroken Skull IPAをスーパースターたちに振る舞った。 脚注・出典• では2004年と2006年の間に「法的に改名した」旨が記載されていたため、改名時期はこの頃と推定される。 一方、2015年5月にで放送されたドキュメンタリー「E:60 Behind The Curtain」では、「 ストーン・コールド・スティーブ・オースチンことスティーブ・ウィリアムス Steve Williams "STONE COLD STEVE AUSTIN" 」と紹介されていた。 Austin, Steve; Ross, Jim 2003. The Stone Cold Truth. ジミー鈴木 編集 『まるごとわかるアメリカンプロレス』2002年、70頁•

次の

プロレス界「最凶のタフ野郎」スティーブ・オースチン選手の魅力を解説|【SPAIA】スパイア

スティーブ オースチン

ストーンコールド・スティーブ・オースチンのリングネームでWWEを沸かせたプロレスラー。 得意技は「ストーンコールド・スタナー」。 6度のWWE王者のほか様々なタイトルを獲得した。 プロレスラー、クリス・アダムスのもとでトレーニングを積んだ後、地元テキサスでデビューする。 USWAやWCWにスタニング・スティーブ・オースチンの名前で出場。 96年、WWE初戦に挑み、「レッスルマニア7」で勝利を納める。 この頃から、ストーンコールドを名乗る。 「キング・オブ・ザ・リング」になった時のスピーチ「3:16」は多くのプロレスファンの心に刻み込まれ、一時代を築いていった。 リングの外では俳優としても活動。 TVシリーズ「刑事ナッシュ・ブリッジス」(99~00)に初出演。 「ロンゲスト・ヤード」でスクリーンデビューし、「監獄島」(07)で主演を務める。 シルベスター・スタローン監督・主演作「エクスペンダブルズ」にも出演した。 関連作品(映画)• 7 2013年公開• 6 2013年公開• 4 2010年公開• 5 2009年公開• 9 関連作品(海外ドラマ)• 0 写真・画像.

次の

ストーン・コールド・スティーブ・オースチン

スティーブ オースチン

来歴 [ ] 初来日以前 [ ] 時代からとで才能を発揮し、レスリングでは大学選手権4年連覇やオールアメリカンへの抜擢を受けるほどであった。 入りしたのは。 当初はアメフトのオフシーズンのみリングに上がっており、から本格的にプロレスラー活動を始める。 大学の先輩にあたりウィリアムスをスカウトしたの主宰するMSWA(後のミッドサウス版UWF)で、とのコンビで活躍(この当時の抗争相手は、後にタッグを組むやの「」だった)。 12月にはでと対戦している。 初来日後 [ ] 7月のの興行「バーニング・スピリット・イン・サマー」にて初めて日本のリングに立った。 パワフルかつスピーディーなファイトで脚光を浴び、8月5日には猪木とのシングル対決を組まれるなど売り出されたが、同年10月二度目の来日で対戦した猪木が受け身に失敗してした際にフォールを取りに行くというまずい対応をし、アドリブ力のなさを露呈してしまう。 個別シリーズでは外国人エース扱いを受けるものの、後に参戦してきたやに次ぐ3番手への降格を余儀なくされた。 、のミッドサウス版UWF買収に伴い、の(後の)に移籍。 9月からはのパートナーとして に加入し、翌4月2日にからを奪取した。 2月にに参戦。 以降は全日本を日本での主戦場とし、最強外国人の一角として日本人選手の前に立ちはだかった。 とのタッグは と呼ばれ(ゴディの日本での異名が「人間魚雷」だったため)、このタッグで1990年との2年連続でに優勝するなど目覚しい活躍を見せた。 テリー・ゴディのWCW退団後はとタッグを組んだ時もあった(オースチンの本名はスティーブ・ウィリアムスであり、のタッグということになる)。 ウィリアムスがシングル戦線に名乗りを上げたのは夏、パートナーのゴディが内臓疾患により長期欠場し始めた頃からである。 9月にのに挑戦するはずだったゴディの欠場により、ウィリアムスとの間で三冠挑戦者決定戦が行われ、ウィリアムスが勝利。 この試合でウィリアムスが放った急角度のを、で実況のアナウンサーは「バックドロップドライバー」と表現した。 ゴディが三冠王者となった1990年を頂点に年々陰りが見えていたのに対し、それまでタッグ屋と見られていたウィリアムスのシングルプレーヤーとしての飛躍がこの小橋との一戦から始まる。 三沢には敗れたものの、翌年の1994年、準優勝の実績を残し、7月に再び三沢に挑戦。 2年間にわたり王座を保持していた三沢を破り、遂に第11代三冠ヘビー級チャンピオンとなった。 この時は1回の王座防衛の後、10月にに敗れ王座からは陥落。 、チャンピオン・カーニバル直前に「家庭の事情」という名目で来日キャンセル(実際はの大量保持による入国禁止。 当時はこの事情は伏せられていたが、1997年春にの大量保持でされた際に公表された)。 、チャンピオン・カーニバルで1年ぶりの復帰を果たし、準優勝に輝いたが、技のキレがなくなったことを三沢に指摘されたり、パンチを多用し始めたことが批判の対象となった。 小橋健太、、がGETを結成すると、対抗して、とともにを結成。 6月を最後にに移籍したが、彼をプッシュするために企画された大会の準々決勝でに負けして短期間で姿を消す(バート・ガンはこの後「ウィリアムスをKOした男」として全日本の常連となる。 なお、WWFではMSWAから初期WCWを通しての旧知の間柄であるが一時役を務めていた)。 全日本プロレスの選手大量離脱、発足時にも全日本プロレスに継続参戦する。 2000年10月の新日本プロレスの東京ドーム大会での全日本プロレスと新日本プロレスとの対抗戦では、両団体の最強外国人レスラー対決としてと対決。 必殺技のバックドロップで勝ちを奪った。 同年の世界最強タッグリーグ戦ではとのバーシティ・クラブ21で9年ぶりの優勝を飾った。 翌年にはに渡った三冠王座奪還のための、全日本陣営の挑戦者の一人としても起用されている。 咽頭がんの発覚 [ ] その後からはをホームリングとし、3月にはかねてから願望があったにも挑戦する。 この挑戦は、の手術代を稼ぎ出すためのものとも言われるが、3月に『週刊プロレス』に掲載されたインタビューによれば、ウィリアムスがの告知を受けたのは試合当日直前であったとされる。 こうした事情もあり、この試合は1ラウンドでKO負けしたものの、それを非難する者はいなかった。 2004年7月にIWAジャパンに来日した際に、自身が咽頭がんに罹っていることを公表する。 一時危篤状態に陥るもののを全摘出する手術を行った。 手術の成功とプロレス界への復帰 [ ] ウィリアムスの手術は成功し、健康状態はいったん回復した。 かねてより希望していたように、ウィリアムスは湖畔にたたずむ落ち着いた一軒家に住み静かな生活を送っていた。 体重は全盛期から20kgほど減ったものの時折リングに上がっており、ウィリアムスによればプロレスの試合に出るということが癌との戦いにも良い影響を与えているとのことであった。 また手術成功後、ウィリアムスの友人でもあるジョニー・エースの依頼でのファーム選手のコーチに就任した他、自身の闘病経験を教会で語るなど社会活動にも取り組むようになった。 ウィリアムスは、声帯を全摘出したために固形物の嚥下は不可能だったものの発声用の機械を埋め込んでいたため音声による会話は可能だった。 3月には闘病記 " How Dr. Death became Dr. Life" を発表している。 5月、IWAジャパン15周年記念興行に来日したが秋頃に咽頭がんが再発した。 10月にIWAジャパンで予定されていたウィリアムスの引退記念試合が延期となり、抗がん剤治療など回復に専念していたが、同年に死去。 49歳没。 全日本マットで脳天から叩き落とす危険な技の応酬のスタートのきっかけを作ったのは、1993年8月31日豊橋大会における、小橋との三冠挑戦者決定戦でウィリアムスが放った「デンジャラス・バックドロップ」である(この技は1990年にシングル戦でにあばら骨を骨折させる大怪我をさせ、しばらく封印していたものである。 それ以前に垂直落下式ブレーンバスターも使っていた)。 それ以降、三沢が「タイガードライバー'91」を解禁、危険な角度の投げ捨て式ジャーマン・スープレックスも使用、後に「エメラルド・フロウジョン」を考案。 小橋は「バーニング・ハンマー」「ハーフネルソン・スープレックス」「スリーパー・スープレックス」、川田は「三冠パワーボム」「垂直落下式ブレーンバスター」「垂直落下式バックドロップ」、は急角度の「怪物ジャーマン・スープレックス」、は「」、ジョニー・エースは「コブラクラッチ・スープレックス」「ジョニー・スパイク」等、トップ選手が次々と脳天直下型の受身が取りにくい危険技を使用し始めた。 の旗揚げ興行初日に突如客席に訪れた。 感想を尋ねると「(この団体は)成功はないな」と断言したという。 そのウィリアムの言葉通りにSWSは派閥争いや興行収益の不振などで2年と持たずに崩壊した。 2000年の全日本プロレス分裂で三沢ら離脱組の最後の売り興行けじめ参戦の際、馬場を尊敬していたウィリアムスは三沢を襲う素振りをしていたが、実行はせず(亡くなった馬場は場外乱闘を嫌っていたため)三沢とは握手して別れた。 番組でのの発言によると、この素振りがきっかけで後にのマットに上がる機会を逸したとのこと。 番組ではウィリアムス側からのNOAHマット参戦の要望を断ったとコメントした。 一方、ウィリアムス自身はNOAHを高く評価しており、自身の教え子がNOAH(や新日本、全日本)で修行出来れば良いという希望を述べている(前出『週刊プロレス』インタビュー)• 入場テーマ曲はの『勇士の叫び(I Love It Loud)』(後にタッグを組んでいたゴディも単独で使用した)。 総当たりシングル戦のチャンピオン・カーニバルでの対ゴディ戦では、双方が同じテーマ曲で入場した。 UWF所属時代や新日本プロレス参戦初期の入場テーマ曲はの『』を使用した。 全日本ではがウィリアムスよりも以前に同曲を入場曲に使用していたため、ゴディ、リングアナと控え室で選曲を行っていたところ、たまたま居合わせたがヘッドホンステレオで聴いていた「勇士の叫び」を薦めたという。 殺人魚雷コンビ全盛のころ、で行われた最強タッグ選手権試合の際、人気絶頂の彼らの入場口には多くの観客が集まり、テープやカメラを片手に今か今かと入場を待っていた。 いつもであれば、テリー・ゴディを先頭に余裕たっぷりに現れるはずが、ドアが開くと同時に椅子を持ったウィリアムスが凄まじい勢いで入場。 意表をつかれた観客らは蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。 椅子はなぎ倒され転倒者が続出、周囲はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。 殺人魚雷コンビ結成当初は入場曲がかかると同時にテリー・ゴディと2人そろって全速力でリングに入り交互にロープワークするのがお決まりだった。 この2人は公私ともに親しく、ゴディのスタン・ハンセンとの三冠王者戦にウィリアムスが半ば加勢する様な形を取っていた(リング外でゴディを手当てするなど)。 試合後、敗戦したこともあり ハンセンは「ウィリアムスの乱入は許せん! ガッデム!! 」と怒り狂っていた。 レスリングの強豪だが試合ぶりにはゴツゴツした不器用な面が目立った。 似たようなタイプのスタン・ハンセンとのシングル戦を全日自主制作のビデオで解説した馬場は苦笑しながら「僕はこの人たちが一体何をしたいのか全然わかりません」と語っていた。 その他にも「体が硬い」「受身の勉強不足で頭から落ちてしまう」など、馬場からは辛い評価が多かった。 参考文献 [ ] 『』2007年4月4日号 得意技 [ ] 受身の取りにくい急角度や垂直落下ので落とすため、 デンジャラス・バックドロップ、 殺人バックドロップと呼ばれた。 また本人は ドクター・スープレックスの愛称で呼ぶこともあった。 特に対小橋戦でのバックドロップは圧巻で、実況したアナが「バックドロップ・ドライバー」と表現したことがある。 かつて三冠統一ヘビー級王者として7度の防衛記録を保持していたからベルトを奪取したときに放ったのもこの技。 上記技を掛けた後、そのままブリッジしたままフォールする技。 勢い余って形が半ば崩れた様な形で強引にフォールすることもあった。 の要領で相手を抱え、その状態からに持って行く技。 バックドロップとこの技が、ウィリアムスの代名詞。 創始者ビル・ワット直伝。 対戦選手を抱えあげたまま、コーナーポストに向かってダッシュし、いったん対戦相手の背中をポストにぶつけた後、また対角線上の逆のコーナーに向かってダッシュし、再び対戦相手の背中をポストに当てた後、リング中央でのようにで叩き付け、そのままフォールするという技。 トップロープからのも使用した。 大抵100kg以上ある選手をずっと抱えたまま動く技のため、技をかけたウィリアムスの方が疲労しているかのように見えることもある。 1993年頃までフィニッシュ・ホールドであったが、スタミナの負担の大きな割には抱え上げた相手にポストやロープに捕まってディフェンスされやすいことに加え、後年にデンジャラス・バックドロップやドクター・ボムをマスターしたことから使用頻度は徐々に減っていった。 立っている相手に対し、トップロープから飛んで肩から相手にぶつかる技。 フィニッシュとなることは少ないが、タッグマッチながらジャイアント馬場からピンフォールを奪ったことがある。 怪力を誇るウィリアムスならではの技であり、試合中の見せ場の一つ。 獲得タイトル [ ]• :1回• NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回• UWF世界ヘビー級王座:1回• ACWヘビー級王座:1回• UWF世界ヘビー級王座(Herb Abrams派):1回• UWF TV王座(Herb Abrams派):1回•

次の