レシャード カ レッド。 [Vol.5]「レシャード先生」をご存知ですか?

脱混迷ニッポン/レシャード・カレッド医師(上)

レシャード カ レッド

「カレーズの会」のホームページ レシャード・カレッドさんの著書「知ってほしいアフガニスタン」のサイト 「アルカイダとタリバンを区別すべきだ。 軍事行動が解決策ではない」 レシャード・カレッドさんは1950年、カンダハール生まれ。 京都大医学部に留学し医師となり、現在は静岡県島田市の医院長。 レシャードさんは最近、現地で撮影した患者や治療の写真やデータを使いながら、現状を説明した。 日本のアフガン支援について「アフガンを語ることが何か時代遅れのように受け止められている。 タリバンについて、「一般のアフガン国民の支持がある」と述べた。 司会 石郷岡建・日本記者クラブ企画委員 使用した資料です。 アメリカの中枢がテロにみまわれ、怒れる大国の攻撃が嵐のようにアフガニスタンに降り注いだのは2001年。 その翌年、アフガンの医療、教育を支援するため、非政府組織「カレーズの会」を日本で結成した。 カレーズとは、人知れず大地に潤いを与える地下水脈を意味する。 年末年始も現地で活動した。 今も続く空爆と自爆テロ。 子どもたちは栄養失調でやせ細る。 とりわけ深刻なのは妊産婦の疾病だ。 感染症に加え、戦争によるPTSDも高い率を占める。 「患者は年々増え、診療所の外に並んでいるのです」 アフガニスタン生まれ。 戦後日本のめざましい復興の歴史に関心を持ち、20歳前の69年、日本に留学した。 京都大学で医学を学ぶが、ソ連のアフガン侵攻で帰国の機会を逸し、日本に定住する。 アフガンの文化や複雑な政情は、今でも各国で十分に理解されているとは言い難い。 現にタリバンへの支持は依然、根強いという。 「暴力を肯定するのではないが、民主主義でも押しつけではだめなのです」。 人々が厚い信頼感を抱く日本に、「顔の見える支援を」と訴える。 静岡県島田市で医院を営み、医師のいない山村にも往診に向かう。 「患者が病院に来るのではなく、医療者が患者のもとへ出向くべきだ。 それが私の理念です」。 思いは、異郷・日本でも遠い祖国に戻っても変わらない。 「志」があれば、国境や文化の違いを乗り越えることは決して不可能ではないのだ。 故郷を思い、切なる願いをこう語った。 「アフガニスタンにとって、今ほしいものは何か。 一番必要なのは関心をもってもらうことです」 空爆と治安悪化にあえぎ、最低限の人権すら尊重されぬ人々の存在に、日本人が関心を失うならば、それは超えがたい壁となる。 その壁を崩すのは、われわれ報道の役割でもある。

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レシャード・カレッド・「カレーズの会」理事長・医師

レシャード カ レッド

六九年に来日、千葉大学留学生部を経て、七二年、京都大学医学部に編入。 七六年、京都大学医学部卒業。 八六年、日本国籍を取得。 専門は呼吸器疾患。 大阪、天理、松江など各地で病院勤務の後、九三年に静岡県島田市に「レシャード医院」を開業。 地域医療に貢献する傍ら、パキスタンやカンボジアの難民キャンプでも医療奉仕活動を続け、九六年には毎日国際交流賞を受賞。 母国アフガニスタンの復興に向けて広く国際協力を呼びかけている。 老人保健施設「アポロン」理事長。 京大医学部臨床教授。 島田市医師会長。 NGO「カレーズの会」を立ち上げ、政府や赤十字、JICA依頼の活動も行っている。 著書に「知ってほしいアフガニスタン: 戦禍はなぜ止まないか」 レシャード: そうですね。 ある医者が往診に来るようになりまして、大変恰幅のいい大きなお腹した立派なお医者さんが来るけれど、どんどん弱っていく。 その患者さんが物を食べれない、咳き込んで苦しそうな感じで弱っていくのは、誰が見てもわかるようなところでありましたけれども、そのお医者さんが来るたびに、「何弱気になっているんだ。 頑張れよ。 ちゃんと食べてちゃんと元気にならなきゃ。 薬飲みなさいよ。 治るに決まっているじゃないか」と励まして帰ると、お爺さんは元気になってパクパクと食べるようになるし、ちゃんとみんなと喋るし、こちらも声を掛けてあげる。 ところが門の前で家族に喋っているお医者さんの言葉を耳にしたのは、「もう長くないよ。 もうおそらく近いうちに亡くなるかも知れない」と言っている。 そう言いながらも、また来ては患者さんをまた励ましていくという。 だから子ども心では〈嘘つきだな〉と最初思ったわけね。 何であんな裏腹なことを言っているのか、と。 そのお爺さんの顔を見ていたら、死ぬ前であっても、励まされることによって、わくわくして、そのお医者さんが来るのを待っているような状況で、〈あ、これはただただ薬で治す病気ではなくて、心から信頼されているとか、あるいは心から励ますということによって、その人を元気づけているんだなあ〉ということが子ども心にわかった。 医者は、本来はただ薬とか、技術ではないんだ。 そういう気持をその時に抱いた。 それでこれは医者になるべきだということを心に決めんです。 そして家に帰って来て、父親にその話をしたら、「そういうことなんだよ。 人を救うということは、ただ学門だけではダメだよ。 そこに心が添えていなければダメだよ」というようなお話があって、「頑張れよ。 良いところに気付いたね」という励ましの言葉を頂いたんです。 レシャード: 大学内には留学生寮があり、各国の学生が共に生活している。 日本人の寮とまた別なんですね。 そうすると外国人だけの寮に居ると、それぞれの言葉は違っていても、共通の言葉はやっぱり英語になっちゃうんです。 私は、日本語をしっかり覚えたい。 本読めるだけではなくて、日本の文化に触れ、日本食を食べ、日本語で話したいという気になったんです。 それで新聞広告出して、「私は下宿したいけど、さしてくれる人いませんか」ということまでさしてもらったんです。 その時にやっと二軒見つかったんですね。 一軒に行ったら、「女性だと思っていたんで、そんな大の男が来たら嫌だ」と言われて断られた。 もう一軒は、お年寄りの夫婦がおられて、「いいよいいよ。 どうぞどうぞ」という感じでしたね。 そのご夫婦があんまりにも親切過ぎて、日本語の問題だけではなくて、日本の食事にしても、いろいろなものを経験させて頂いたんです。 月末になると、下宿代も要らないと言って取ってくれなかった。 レシャード: ある日食事が終わってから話を聞くと、「実は君を引き受けたのは、償いの意味で君に来てもらったんだ」と。 「その償いというのは何ですか?」という話を聞きますと、「戦争中、満州にいた私たちは、日本に帰る船に乗り遅れ、中国に残されてしまった。 日本人ということで周囲から罵声を浴び、死の危険すら感じた。 幸いにも親切な中国人のおばあさんが私たちをかくまってくれ、一部屋しかなかった家の地下室に住まわせてくれた。 迫害の恐れのあった私たちを外へ出すことなく、おばあさんが一日中働いて苦労して得たわずかな食料を分け与えてくれた。 体の弱いこのおばあさんの親切に、ずっと心苦しさを覚えていた。 私たちをいつか日本へ帰そうと考えていたおばあさんは、ある朝、出かけたはずなのに急に引き返して来て、私たち夫婦に早く支度をするように促した。 そして自分が頼み込んだ古い船に連れて行き、その船底にかくまってくれた。 それが日本行きの船で、私たちは日本に帰ることができたのだ。 そのお婆さんが、おそらくその後は連絡が取れないので、おそらく我々を逃がした罪で罰せられることになったのだろう。 そのおばあさんに申し訳ないと思って、今度その恩をいつか困っている誰かに分け与えたいと思っていた。 そんな時、現れたのが君だったのだ。 だから我々はそれに対する報酬とか、あるいはお返しを期待しているわけではないんだ」と。 それは私にとっては人生の上では大きな教訓でした。 私は、今度このお年寄りから得たものを、どういうふうに、誰に返せるのか、ということを、心に決めておかなければならないのだということに繋がっていくことになります。 ナレーター: 日本に来てから七年後の一九七六年、レシャードさんは京都大学の医学部を卒業。 日本で医師としての第一歩を踏み出したレシャードさんの赴任先となったのが、当時呼吸器科ができたばかりの島田市民病院でした。 八年間に及んだ市民病院での勤務。 レシャードさんは、多くの患者に慕われる医長となり、日本国籍も取りました。 一九八九年、レシャードさんに海外派遣の話が持ち上がります。 行き先は、当時結核が蔓延していたイエメン。 予防対策や治療に奔走した結果、イエ メンは、結核の治癒率が中東でトップになる成果を生みました。 共にイエメンへ渡った妻秀子 ひでこ さんと四人の娘さんが、日本に帰国するまでの二年間、レシャードさんを支えました。 イエメンでの役割を終えたレシャードさんには、次ぎに島根県松江市の病院に呼吸器科を新設する仕事が待っていました。 松江で働き始めたレシャードさんの元に、ある日かつて の患者や家族がバスを連ね、遙々訪ねてきました。 それは「私たちの島田に是非戻って来てください」という陳情でした。 レシャード: その上にのさばっているだけが医師なんです。 その自覚を持たないと、医師は、自分が全部治していると思い込んでしまうというようなことになっちゃう。 そうじゃない。 ベースがあるから医者の技術が活かせる。 大変厳しいというのか、しんどい思いをするのは職員なんですね。 常に動かなければならない。 常に笑顔をつくらなければならない。 常にみなを楽しい雰囲気にさせなければならない。 それを惜しまずにやっていく必要がある。 毎日昼間も夜も夜勤をやったり、三百六十五日働かなければならない、交代交代と雖も。 だからいくら貰ったから、いくらの仕事をしなければならないというサラリーマンみたいなものではなくて、そこに「奉仕という心」を持たないとダメです。 もう一つ大切なことは、今日見て貰ったかと思うけど、みんな役割があるんです。 何かやっている。 八十八歳のお婆さんが、一生懸命針で縫いぐるみを作っている。 「何しているの?」と言ったら、「いや、手の不自由な人がいるから、握ってくれれば、もしかして良いかも知れない」。 早速、ある男性の手のリハビリのために持っていったら、喜んで一生懸命使ってくれた。 この役割というのは、「自分が人の役に立ちます」というものがあるから、一生懸命やれるんです。 その役割は、微々たるもんでもいいから何かするという。 そういうことを、いわゆる姥 うば 捨て山ではなくて、捨てるんじゃないんだよ。 生きていくんだし、人の役に立つんだし、この役割が僕は大事だと思います。 そこには当たり前の生活をするという環境を作ってあげなければならないと。 そうでなければ意味ないわけです。 そういうことがあって、なるべく施設は離れた緑の豊かな里ではなくて、家々が見えたり、人が住んでいる街の中で、そこには人の動きや生活の匂い、音があり、声が聞こえたり、この地域の中に生きていく以上、その社会に溶け込む必要がある。 それは少しずつその輪を広げていって、一石を投じた水の輪が広がると同じように、日に日にそれが一つの事業になり、あるいは生活出来る場になり、あるいはそれが医療人としての一つの役割に繋がっていくわけです。 ナレーター: レシャードさんが、日本に根を下ろした理由の一つは、祖国アフガニスタンを襲った戦争でした。 一九七九年、ソビエト軍が侵攻、撤退までの十年間に、国民の十分の一に当たるおよそ百五十万人が死亡、六百万人ほどの難民を生み出しました。 ソビエト軍が去った後も、厳格なイスラム戒律主義を掲げるタリバンなどによる内戦が続きます。 十年が過ぎた今も尚軍の駐留は続いています。 かつて女性が街を闊歩し、自由で多様な文化を誇っていたアフガニスタンの豊かさは、相次ぐ戦争で奪われました。 レシャードさんが、将来帰るべき場所として夢見ていた多くの医療 施設も破壊され、人々は平均寿命が五十歳未満という 世界屈指の劣悪な環境に置かれています。 ソビエト軍による侵攻以来、レシャードさんは、一人で何度も難民キャンプに赴き、私費をなげうって医薬品を集め、救援活動を続けました。 その名は「カレーズの会」。 「カレーズ」とは、現地で大地を潤す「地下水脈」命の水脈を意味する言葉です。 会報を発行して全国に寄付を呼び掛け、厳しい予算を積み上げながら、現地に医療施設を作る活動などを進めてきました。 レシャード: 当然男子の医者が女性を診れないということというのは、制限がありますし、お産の問題もあります。 実はうちの病院でもちょっと変わった工夫をしましたんです。 これが大変面白いことで、村々に、村の人で、教育する男女を一人ずつをボランティアとして指名して、その人たちを教育して、村の中で活動してもらうことにしました。 実は一番助かったのは、その女性たちが、お産婆さんを教育して、お産婆さんを村に戻して、ある程度の材料を渡すと、まったく度素人の誰も知らない人が取り上げる子どもと違います。 実はこれ九つの村で始めて、今は十二の村でやっています。 なんとこの一年間で五十三のお産がありました、村々で。 これ安心な子ども。 で、今大変死亡率が高い中で、このシステムが凄い上手くいきました。 そうすると予防注射も、そこに予防接種をする人を派遣して、その人たちと一緒に村を廻ったら安心だし、村々の家を廻るようになるから、それもやって貰った。 そこのボランティアの人たちを教育した後も、月に一回、必ず最新のコースを教えるようにしています。 その人たちからまたそこのお母さんたちにいろいろ教えて貰うんです。 レシャード: 宗教は、イスラム教に限らず、どこの宗教であろうと、人の導くためにできているものであって、制限を越えたり、あるいは悪い方向に人を導くということはあり得ないと思います。 基本的にイスラムの中では、「あなたはもっと大事にしなければならないのは、妻であり、子どもであり、その教育はあなたの義務である」という文章があるんです。 それは大変重要な言葉であって、イスラムの根元の言葉です。 実は私、二、三 年前に、国際教育ボランティア協会の方の仕事でアフガニスタンの東部の方に行きました。 いくつか村の有力者たちを集めて、そこで私も一緒に向こうの言葉で座ってお話して、「こういうことはコーランには書いてありますよ」という話をしながら説得して、今必要とされるものはどんなことかということで、みなさん説得できて、そしてそこで教育とか、あるいは医療を受け入れられる。 女性の医療を含めて、そこの村々で女の子の教育ができたり、あるいは医療診療をちゃんと受けられる。 やはりそこで理解できるように対話をもつというのが、僕は大事な手段だと思います。 ナレーター: 現地での取り組みが、少しずつ実を結び始めていた最中、レシャードさんは大切な人を失う体験もしてきました。 秀子さんは、アフガニスタンと日本で、休みなく働くレシャードさんの大きな支えでした。 レシャードさんは、日本に来て結核治療を学んだたタヒリさんを助け、その将来に大きな期待を寄せていました。 三十代半ばの命を奪った事故は、自爆テロによるものでした。 空爆や地雷、過激なイスラム教徒による自爆テロと隣合わせの状態が続くアフガニスタンでの医療活動。 志を共にする仲間を亡くす中で、レシャードさんは、自らも信仰するイスラムの教えについて考え続け、一ヶ月に及ぶ断食などの戒律の中に、自分にとっての大切な意味を見出してきました。 レシャード: 日本人がもっているイスラムというイメージとは、ちょっと違う部分がけっこうあります。 豚肉食べないとか、そういうのがありますけど、もっと大切なことは、「寄り添うこと」の意味が、僕は一番大事だろうなと思います。 だから断食をすることで、自分が人の気持ちをわかる。 その痛みをわかる。 腹減らして食べない。 喉が渇く。 そういうものが、どれほど辛いものなのか、その気持ちを先ず自覚しなさいよと。 その人は一生その苦しみをもっているわけです。 「君はそれに対してどうするの?」というのを問われていると思います。 そういう意味で、それを如何に自分のものにして、その一ヶ月の教訓をどういうふうに実行に移せるのかというところだと思います。 レシャード: 私自身は、女房を亡くして、ほんとに辛くて、子ども四人も産んで貰って育てて貰って、別れは大変悲しいけれども、一番最初にソ連軍が侵攻して、その時に真っ先に彼女は、そのまでに蓄えたものをすべてなくして、「これで薬買って行って来なさい」と言ってくれた。 その時笑顔で送り出してくれたというのは、十分僕の活動を理解をしてくれていただろうと思います。 何回か地雷踏み損なった私もいますけど、笑顔で迎えてもくれた。 私のところに来てくれていたドクター・マムン タヒリは大変いい青年で、大変真面目な方だったけれども、残念ながら自爆テロで命を失いました。 両親は健在で、お悔やみにまいりましたら、出迎えてくれた幼い子どもたちの その姿を見ていたたまれない気持でした。 「我々にできることがなんかあれば」と言ったら、「神様が決めたことだろう。 ただ彼が人のために、人を救うために出掛けた時に死んだということだけは、我々の救いである」そういう言葉を聞くと、やっぱり乗り越えなければならないという宿命というものが人間にあるわけですから、確かにその宿命を乗り越えるのは大変辛いことでありますし、なかなかそう楽なことではないけれども、ただそれがまた一緒にやってきた仕事が使命であり、その使命をこれから貫かなければならない。 これからの仕事の上で、私はまた奮闘しなければならない、と思っているところであります。 レシャード: 医療というのは、本来ならば病人が寝て居て動けない筈なんだよね。 そうすると、医師にとっては場所ではないんですよね。 出向くべき患者がおれば、そこに出向くのが医療人であり、そこが医者である。 それはたまたま私の病院であったり、もしかして老人ホームだったり、あるいはもしかしてその人のお宅だったり、それが日本じゃなくて、もしかしてイエメンだったり、パキスタンやカンボジアにある難民キャンプだったり、アフガニスタンだったりということに繋がっていくんです。 レシャード: いいえ、まったく私、そう思いません。 それは立派に成し遂げた結果であると思います。 自然に死ぬことは、これは運命であり、これは定めである。 それを楽しく自然のままで迎えられることが成功である。 それは死というのは敗北では決してないです。 これは避けられないことです。 いくら医療が、あるいは医療技術が進んでも、死は無くすことはあり得ません。 僕はむしろ逆にどう生きるかということの質の問題なんです。 ある時にいつも「私は家で畳の上で死にたい」と言っていた八十八歳のお婆さんがおりました。 施設に入っているお婆さんです。 最期は意識もほとんどなく、血圧も下がって、「我々医療の側からは数時間の問題です」ということで、家族の方に説明して、「往診するからおばあちゃんの望みをかなえてあげてほしい」と家族を説得し、自宅に連れて帰ってもらった。 なんと婆ちゃんは三時間後に目を覚ましてニコッと笑っちゃった。 勿論食べれないし、意識を失っているんですけど、三日間その孫たちに手を繋がれながら生き延びた。 最期は笑顔で亡くなりました。 たったの三日だけど、その三日が自分が希望としていた孫たち曾孫たち、あるいは子どもたちに手を繋いで貰いながら、畳の上で死んでいったのは、大変幸せだったなと思いました。 レシャード: もう大喜びでした。 子どもたちはその亡くなったお婆さんの顔を叩いて、「婆ちゃん!起きてよ!」と、ちっちゃな子どもたちが、「起きてよ!」と言いながらも触るんです。 死ぬことの悲しさを知らない。 どこかへ行った爺ちゃん、婆ちゃんが死んで帰って来て、それで終わりです。 顔を見るだけで終わっちゃう。 死が別れで、どれほど辛いものかというものは、子どもたちは知らないんです。 だから痛め付けることも平気でやっている。 子どもたちが、別れの辛さ、悲しさを覚えれば、二度と人をそういう目に遭わせることはあり得ないと思う。 だからそのお婆ちゃんの孫・曾孫たちは、そのお婆ちゃんを掴まえながら、引っ張りながら、「起きてよ!」というのは、大きくなったら、〈あ、死に方というのは、こういうもんだ。 だから辛いもんだ。 でも傍に居て良かった〉ということが、この人たちの人生の中に教訓が遺る。 命を大事にする。 命には最後があるということを自覚する。 そしてその命は、大勢の人たちに護られてできているもの。 自分だけの人生じゃないんだよ。 自分一人の命じゃないんだ。 その「生きる質」と「死の質」の両方を問われているんだと。 鋏の自慢話をし、どのように作られ、どれほどの切れ味であるかなどを説明した。 すると王様は、「あなたのご好意に感謝する。 あなたが持参した鋏は確かに自慢できるほどの逸品であろう。 しかしわれわれはこれを土産としては受け取れない」と。 「何故ですか?」と言ったら、「鋏は物を切るものであり、裂くものだからだ。 それは人間と人間の信頼と絆さえも切る可能性がある。 それによってさらに友情が増し、互いを尊敬し合い、それぞれの立場を尊重し合うことができるような関係をつくりたい。 それが平和を生み出し、平安な世界をつくるのである」というような詩です。 レシャード: アフガニスタンを含めてシルクロードの一つの大きな文化の大切なことは、あそこに「掟」というものがあったわけなんです。 こういうところの人たちが貿易をして往ったり来たりする。 それは必ず受け入れる。 「自分が、もし三食しかなかったら、二食は客人に与え、一食は自分の家族に分けて食べるように」という掟がある。 客人はそれだけ大事にする。 それが平和というものを、それが貿易とか、繁栄とか、そういうものの結果を生んだ。 私が、一番残念でしょうがないことは、信頼が失われたということなんですよ。 長い歴史の中で培われた人と人との信頼なんです。 その祖国の信頼が、いろんなところから、いろんな武器を渡されて、戦わされたり、いろんな利害関係で、そういう治安とか、秩序を失ってしまったという。 これを戻すのには、大変な時間・期間がかかると思うんです。 街は作れば何十年経てばなんとかなるだろう。 学校は作れるだろう。 教育もこれから始められるだろう。 病人は治せる。 この一番大切なものが失われたことが大きな問題だろうなと、僕は思います。

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レシャード・カレッドとは

レシャード カ レッド

六九年に来日、千葉大学留学生部を経て、七二年、京都大学医学部に編入。 七六年、京都大学医学部卒業。 八六年、日本国籍を取得。 専門は呼吸器疾患。 大阪、天理、松江など各地で病院勤務の後、九三年に静岡県島田市に「レシャード医院」を開業。 地域医療に貢献する傍ら、パキスタンやカンボジアの難民キャンプでも医療奉仕活動を続け、九六年には毎日国際交流賞を受賞。 母国アフガニスタンの復興に向けて広く国際協力を呼びかけている。 老人保健施設「アポロン」理事長。 京大医学部臨床教授。 島田市医師会長。 NGO「カレーズの会」を立ち上げ、政府や赤十字、JICA依頼の活動も行っている。 著書に「知ってほしいアフガニスタン: 戦禍はなぜ止まないか」 レシャード: そうですね。 ある医者が往診に来るようになりまして、大変恰幅のいい大きなお腹した立派なお医者さんが来るけれど、どんどん弱っていく。 その患者さんが物を食べれない、咳き込んで苦しそうな感じで弱っていくのは、誰が見てもわかるようなところでありましたけれども、そのお医者さんが来るたびに、「何弱気になっているんだ。 頑張れよ。 ちゃんと食べてちゃんと元気にならなきゃ。 薬飲みなさいよ。 治るに決まっているじゃないか」と励まして帰ると、お爺さんは元気になってパクパクと食べるようになるし、ちゃんとみんなと喋るし、こちらも声を掛けてあげる。 ところが門の前で家族に喋っているお医者さんの言葉を耳にしたのは、「もう長くないよ。 もうおそらく近いうちに亡くなるかも知れない」と言っている。 そう言いながらも、また来ては患者さんをまた励ましていくという。 だから子ども心では〈嘘つきだな〉と最初思ったわけね。 何であんな裏腹なことを言っているのか、と。 そのお爺さんの顔を見ていたら、死ぬ前であっても、励まされることによって、わくわくして、そのお医者さんが来るのを待っているような状況で、〈あ、これはただただ薬で治す病気ではなくて、心から信頼されているとか、あるいは心から励ますということによって、その人を元気づけているんだなあ〉ということが子ども心にわかった。 医者は、本来はただ薬とか、技術ではないんだ。 そういう気持をその時に抱いた。 それでこれは医者になるべきだということを心に決めんです。 そして家に帰って来て、父親にその話をしたら、「そういうことなんだよ。 人を救うということは、ただ学門だけではダメだよ。 そこに心が添えていなければダメだよ」というようなお話があって、「頑張れよ。 良いところに気付いたね」という励ましの言葉を頂いたんです。 レシャード: 大学内には留学生寮があり、各国の学生が共に生活している。 日本人の寮とまた別なんですね。 そうすると外国人だけの寮に居ると、それぞれの言葉は違っていても、共通の言葉はやっぱり英語になっちゃうんです。 私は、日本語をしっかり覚えたい。 本読めるだけではなくて、日本の文化に触れ、日本食を食べ、日本語で話したいという気になったんです。 それで新聞広告出して、「私は下宿したいけど、さしてくれる人いませんか」ということまでさしてもらったんです。 その時にやっと二軒見つかったんですね。 一軒に行ったら、「女性だと思っていたんで、そんな大の男が来たら嫌だ」と言われて断られた。 もう一軒は、お年寄りの夫婦がおられて、「いいよいいよ。 どうぞどうぞ」という感じでしたね。 そのご夫婦があんまりにも親切過ぎて、日本語の問題だけではなくて、日本の食事にしても、いろいろなものを経験させて頂いたんです。 月末になると、下宿代も要らないと言って取ってくれなかった。 レシャード: ある日食事が終わってから話を聞くと、「実は君を引き受けたのは、償いの意味で君に来てもらったんだ」と。 「その償いというのは何ですか?」という話を聞きますと、「戦争中、満州にいた私たちは、日本に帰る船に乗り遅れ、中国に残されてしまった。 日本人ということで周囲から罵声を浴び、死の危険すら感じた。 幸いにも親切な中国人のおばあさんが私たちをかくまってくれ、一部屋しかなかった家の地下室に住まわせてくれた。 迫害の恐れのあった私たちを外へ出すことなく、おばあさんが一日中働いて苦労して得たわずかな食料を分け与えてくれた。 体の弱いこのおばあさんの親切に、ずっと心苦しさを覚えていた。 私たちをいつか日本へ帰そうと考えていたおばあさんは、ある朝、出かけたはずなのに急に引き返して来て、私たち夫婦に早く支度をするように促した。 そして自分が頼み込んだ古い船に連れて行き、その船底にかくまってくれた。 それが日本行きの船で、私たちは日本に帰ることができたのだ。 そのお婆さんが、おそらくその後は連絡が取れないので、おそらく我々を逃がした罪で罰せられることになったのだろう。 そのおばあさんに申し訳ないと思って、今度その恩をいつか困っている誰かに分け与えたいと思っていた。 そんな時、現れたのが君だったのだ。 だから我々はそれに対する報酬とか、あるいはお返しを期待しているわけではないんだ」と。 それは私にとっては人生の上では大きな教訓でした。 私は、今度このお年寄りから得たものを、どういうふうに、誰に返せるのか、ということを、心に決めておかなければならないのだということに繋がっていくことになります。 ナレーター: 日本に来てから七年後の一九七六年、レシャードさんは京都大学の医学部を卒業。 日本で医師としての第一歩を踏み出したレシャードさんの赴任先となったのが、当時呼吸器科ができたばかりの島田市民病院でした。 八年間に及んだ市民病院での勤務。 レシャードさんは、多くの患者に慕われる医長となり、日本国籍も取りました。 一九八九年、レシャードさんに海外派遣の話が持ち上がります。 行き先は、当時結核が蔓延していたイエメン。 予防対策や治療に奔走した結果、イエ メンは、結核の治癒率が中東でトップになる成果を生みました。 共にイエメンへ渡った妻秀子 ひでこ さんと四人の娘さんが、日本に帰国するまでの二年間、レシャードさんを支えました。 イエメンでの役割を終えたレシャードさんには、次ぎに島根県松江市の病院に呼吸器科を新設する仕事が待っていました。 松江で働き始めたレシャードさんの元に、ある日かつて の患者や家族がバスを連ね、遙々訪ねてきました。 それは「私たちの島田に是非戻って来てください」という陳情でした。 レシャード: その上にのさばっているだけが医師なんです。 その自覚を持たないと、医師は、自分が全部治していると思い込んでしまうというようなことになっちゃう。 そうじゃない。 ベースがあるから医者の技術が活かせる。 大変厳しいというのか、しんどい思いをするのは職員なんですね。 常に動かなければならない。 常に笑顔をつくらなければならない。 常にみなを楽しい雰囲気にさせなければならない。 それを惜しまずにやっていく必要がある。 毎日昼間も夜も夜勤をやったり、三百六十五日働かなければならない、交代交代と雖も。 だからいくら貰ったから、いくらの仕事をしなければならないというサラリーマンみたいなものではなくて、そこに「奉仕という心」を持たないとダメです。 もう一つ大切なことは、今日見て貰ったかと思うけど、みんな役割があるんです。 何かやっている。 八十八歳のお婆さんが、一生懸命針で縫いぐるみを作っている。 「何しているの?」と言ったら、「いや、手の不自由な人がいるから、握ってくれれば、もしかして良いかも知れない」。 早速、ある男性の手のリハビリのために持っていったら、喜んで一生懸命使ってくれた。 この役割というのは、「自分が人の役に立ちます」というものがあるから、一生懸命やれるんです。 その役割は、微々たるもんでもいいから何かするという。 そういうことを、いわゆる姥 うば 捨て山ではなくて、捨てるんじゃないんだよ。 生きていくんだし、人の役に立つんだし、この役割が僕は大事だと思います。 そこには当たり前の生活をするという環境を作ってあげなければならないと。 そうでなければ意味ないわけです。 そういうことがあって、なるべく施設は離れた緑の豊かな里ではなくて、家々が見えたり、人が住んでいる街の中で、そこには人の動きや生活の匂い、音があり、声が聞こえたり、この地域の中に生きていく以上、その社会に溶け込む必要がある。 それは少しずつその輪を広げていって、一石を投じた水の輪が広がると同じように、日に日にそれが一つの事業になり、あるいは生活出来る場になり、あるいはそれが医療人としての一つの役割に繋がっていくわけです。 ナレーター: レシャードさんが、日本に根を下ろした理由の一つは、祖国アフガニスタンを襲った戦争でした。 一九七九年、ソビエト軍が侵攻、撤退までの十年間に、国民の十分の一に当たるおよそ百五十万人が死亡、六百万人ほどの難民を生み出しました。 ソビエト軍が去った後も、厳格なイスラム戒律主義を掲げるタリバンなどによる内戦が続きます。 十年が過ぎた今も尚軍の駐留は続いています。 かつて女性が街を闊歩し、自由で多様な文化を誇っていたアフガニスタンの豊かさは、相次ぐ戦争で奪われました。 レシャードさんが、将来帰るべき場所として夢見ていた多くの医療 施設も破壊され、人々は平均寿命が五十歳未満という 世界屈指の劣悪な環境に置かれています。 ソビエト軍による侵攻以来、レシャードさんは、一人で何度も難民キャンプに赴き、私費をなげうって医薬品を集め、救援活動を続けました。 その名は「カレーズの会」。 「カレーズ」とは、現地で大地を潤す「地下水脈」命の水脈を意味する言葉です。 会報を発行して全国に寄付を呼び掛け、厳しい予算を積み上げながら、現地に医療施設を作る活動などを進めてきました。 レシャード: 当然男子の医者が女性を診れないということというのは、制限がありますし、お産の問題もあります。 実はうちの病院でもちょっと変わった工夫をしましたんです。 これが大変面白いことで、村々に、村の人で、教育する男女を一人ずつをボランティアとして指名して、その人たちを教育して、村の中で活動してもらうことにしました。 実は一番助かったのは、その女性たちが、お産婆さんを教育して、お産婆さんを村に戻して、ある程度の材料を渡すと、まったく度素人の誰も知らない人が取り上げる子どもと違います。 実はこれ九つの村で始めて、今は十二の村でやっています。 なんとこの一年間で五十三のお産がありました、村々で。 これ安心な子ども。 で、今大変死亡率が高い中で、このシステムが凄い上手くいきました。 そうすると予防注射も、そこに予防接種をする人を派遣して、その人たちと一緒に村を廻ったら安心だし、村々の家を廻るようになるから、それもやって貰った。 そこのボランティアの人たちを教育した後も、月に一回、必ず最新のコースを教えるようにしています。 その人たちからまたそこのお母さんたちにいろいろ教えて貰うんです。 レシャード: 宗教は、イスラム教に限らず、どこの宗教であろうと、人の導くためにできているものであって、制限を越えたり、あるいは悪い方向に人を導くということはあり得ないと思います。 基本的にイスラムの中では、「あなたはもっと大事にしなければならないのは、妻であり、子どもであり、その教育はあなたの義務である」という文章があるんです。 それは大変重要な言葉であって、イスラムの根元の言葉です。 実は私、二、三 年前に、国際教育ボランティア協会の方の仕事でアフガニスタンの東部の方に行きました。 いくつか村の有力者たちを集めて、そこで私も一緒に向こうの言葉で座ってお話して、「こういうことはコーランには書いてありますよ」という話をしながら説得して、今必要とされるものはどんなことかということで、みなさん説得できて、そしてそこで教育とか、あるいは医療を受け入れられる。 女性の医療を含めて、そこの村々で女の子の教育ができたり、あるいは医療診療をちゃんと受けられる。 やはりそこで理解できるように対話をもつというのが、僕は大事な手段だと思います。 ナレーター: 現地での取り組みが、少しずつ実を結び始めていた最中、レシャードさんは大切な人を失う体験もしてきました。 秀子さんは、アフガニスタンと日本で、休みなく働くレシャードさんの大きな支えでした。 レシャードさんは、日本に来て結核治療を学んだたタヒリさんを助け、その将来に大きな期待を寄せていました。 三十代半ばの命を奪った事故は、自爆テロによるものでした。 空爆や地雷、過激なイスラム教徒による自爆テロと隣合わせの状態が続くアフガニスタンでの医療活動。 志を共にする仲間を亡くす中で、レシャードさんは、自らも信仰するイスラムの教えについて考え続け、一ヶ月に及ぶ断食などの戒律の中に、自分にとっての大切な意味を見出してきました。 レシャード: 日本人がもっているイスラムというイメージとは、ちょっと違う部分がけっこうあります。 豚肉食べないとか、そういうのがありますけど、もっと大切なことは、「寄り添うこと」の意味が、僕は一番大事だろうなと思います。 だから断食をすることで、自分が人の気持ちをわかる。 その痛みをわかる。 腹減らして食べない。 喉が渇く。 そういうものが、どれほど辛いものなのか、その気持ちを先ず自覚しなさいよと。 その人は一生その苦しみをもっているわけです。 「君はそれに対してどうするの?」というのを問われていると思います。 そういう意味で、それを如何に自分のものにして、その一ヶ月の教訓をどういうふうに実行に移せるのかというところだと思います。 レシャード: 私自身は、女房を亡くして、ほんとに辛くて、子ども四人も産んで貰って育てて貰って、別れは大変悲しいけれども、一番最初にソ連軍が侵攻して、その時に真っ先に彼女は、そのまでに蓄えたものをすべてなくして、「これで薬買って行って来なさい」と言ってくれた。 その時笑顔で送り出してくれたというのは、十分僕の活動を理解をしてくれていただろうと思います。 何回か地雷踏み損なった私もいますけど、笑顔で迎えてもくれた。 私のところに来てくれていたドクター・マムン タヒリは大変いい青年で、大変真面目な方だったけれども、残念ながら自爆テロで命を失いました。 両親は健在で、お悔やみにまいりましたら、出迎えてくれた幼い子どもたちの その姿を見ていたたまれない気持でした。 「我々にできることがなんかあれば」と言ったら、「神様が決めたことだろう。 ただ彼が人のために、人を救うために出掛けた時に死んだということだけは、我々の救いである」そういう言葉を聞くと、やっぱり乗り越えなければならないという宿命というものが人間にあるわけですから、確かにその宿命を乗り越えるのは大変辛いことでありますし、なかなかそう楽なことではないけれども、ただそれがまた一緒にやってきた仕事が使命であり、その使命をこれから貫かなければならない。 これからの仕事の上で、私はまた奮闘しなければならない、と思っているところであります。 レシャード: 医療というのは、本来ならば病人が寝て居て動けない筈なんだよね。 そうすると、医師にとっては場所ではないんですよね。 出向くべき患者がおれば、そこに出向くのが医療人であり、そこが医者である。 それはたまたま私の病院であったり、もしかして老人ホームだったり、あるいはもしかしてその人のお宅だったり、それが日本じゃなくて、もしかしてイエメンだったり、パキスタンやカンボジアにある難民キャンプだったり、アフガニスタンだったりということに繋がっていくんです。 レシャード: いいえ、まったく私、そう思いません。 それは立派に成し遂げた結果であると思います。 自然に死ぬことは、これは運命であり、これは定めである。 それを楽しく自然のままで迎えられることが成功である。 それは死というのは敗北では決してないです。 これは避けられないことです。 いくら医療が、あるいは医療技術が進んでも、死は無くすことはあり得ません。 僕はむしろ逆にどう生きるかということの質の問題なんです。 ある時にいつも「私は家で畳の上で死にたい」と言っていた八十八歳のお婆さんがおりました。 施設に入っているお婆さんです。 最期は意識もほとんどなく、血圧も下がって、「我々医療の側からは数時間の問題です」ということで、家族の方に説明して、「往診するからおばあちゃんの望みをかなえてあげてほしい」と家族を説得し、自宅に連れて帰ってもらった。 なんと婆ちゃんは三時間後に目を覚ましてニコッと笑っちゃった。 勿論食べれないし、意識を失っているんですけど、三日間その孫たちに手を繋がれながら生き延びた。 最期は笑顔で亡くなりました。 たったの三日だけど、その三日が自分が希望としていた孫たち曾孫たち、あるいは子どもたちに手を繋いで貰いながら、畳の上で死んでいったのは、大変幸せだったなと思いました。 レシャード: もう大喜びでした。 子どもたちはその亡くなったお婆さんの顔を叩いて、「婆ちゃん!起きてよ!」と、ちっちゃな子どもたちが、「起きてよ!」と言いながらも触るんです。 死ぬことの悲しさを知らない。 どこかへ行った爺ちゃん、婆ちゃんが死んで帰って来て、それで終わりです。 顔を見るだけで終わっちゃう。 死が別れで、どれほど辛いものかというものは、子どもたちは知らないんです。 だから痛め付けることも平気でやっている。 子どもたちが、別れの辛さ、悲しさを覚えれば、二度と人をそういう目に遭わせることはあり得ないと思う。 だからそのお婆ちゃんの孫・曾孫たちは、そのお婆ちゃんを掴まえながら、引っ張りながら、「起きてよ!」というのは、大きくなったら、〈あ、死に方というのは、こういうもんだ。 だから辛いもんだ。 でも傍に居て良かった〉ということが、この人たちの人生の中に教訓が遺る。 命を大事にする。 命には最後があるということを自覚する。 そしてその命は、大勢の人たちに護られてできているもの。 自分だけの人生じゃないんだよ。 自分一人の命じゃないんだ。 その「生きる質」と「死の質」の両方を問われているんだと。 鋏の自慢話をし、どのように作られ、どれほどの切れ味であるかなどを説明した。 すると王様は、「あなたのご好意に感謝する。 あなたが持参した鋏は確かに自慢できるほどの逸品であろう。 しかしわれわれはこれを土産としては受け取れない」と。 「何故ですか?」と言ったら、「鋏は物を切るものであり、裂くものだからだ。 それは人間と人間の信頼と絆さえも切る可能性がある。 それによってさらに友情が増し、互いを尊敬し合い、それぞれの立場を尊重し合うことができるような関係をつくりたい。 それが平和を生み出し、平安な世界をつくるのである」というような詩です。 レシャード: アフガニスタンを含めてシルクロードの一つの大きな文化の大切なことは、あそこに「掟」というものがあったわけなんです。 こういうところの人たちが貿易をして往ったり来たりする。 それは必ず受け入れる。 「自分が、もし三食しかなかったら、二食は客人に与え、一食は自分の家族に分けて食べるように」という掟がある。 客人はそれだけ大事にする。 それが平和というものを、それが貿易とか、繁栄とか、そういうものの結果を生んだ。 私が、一番残念でしょうがないことは、信頼が失われたということなんですよ。 長い歴史の中で培われた人と人との信頼なんです。 その祖国の信頼が、いろんなところから、いろんな武器を渡されて、戦わされたり、いろんな利害関係で、そういう治安とか、秩序を失ってしまったという。 これを戻すのには、大変な時間・期間がかかると思うんです。 街は作れば何十年経てばなんとかなるだろう。 学校は作れるだろう。 教育もこれから始められるだろう。 病人は治せる。 この一番大切なものが失われたことが大きな問題だろうなと、僕は思います。

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